龟趺が支ぇる宇宙と东ァジァの外交

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    はじめに

    私は、かつて龟趺碑についていくつかの研究を发表したことがある①。その中で、讨论したのは、次のとおりである。

    1:龟趺碑の出现

    2:龟趺碑の「龟」の意味

    3:龟趺碑と东アジア册封体制との关系

    4:中国·朝鲜半岛·日本の龟趺碑の独自性

    とりわけ、1については、最近后汉时代の「游侠の儒化」との关わりから、问题を提示したばかりである②。

    また、私は、「五服论」の史的展开を论じる必要から「八纮论」と「地方分权论」の史的展开を比较しつつ论じた③。この「五服论」·「八纮论」·「地方分权论」は、华夷観と密接に关わつている。从つて、当然ながら、龟趺碑研究とも密接な关わりをもつことになる。しかし、私は、この龟趺碑とそれらの议论との关系について、これまで、さほど具体的な议论を展开してきてはいない。そこで、本稿では、その问题をとりあげることにした。

    地方分权论の要点

    すでに别稿に论じたことであるから、ここに重复して论じることは避けておきたいが、本论に必要な范围内で、その要点をまとめておくことにしよう。

    地方分权を论じる史料用语は「封建」である。现代の常识を支える记事は、『史记』三王世家にある。この『史记』三王世家は、『史记』の中では、比较的成立の遅い部分だが、そこには汉の高祖が天下を统一したときを回顾して、それまでの「封建」の世を复活させるよう议论したことが记されている。この时提出された意见は采用され、汉王朝では、天下を分けて郡县统治をするところと、皇帝の一族を诸侯王にして统治させたところができる。始皇帝が天下をすべて郡县で统治しようとして、早くに来灭亡したことを反省してできた制度である。この诸侯王も、次第に実权が皇帝侧に夺われ、実质郡县化していったことが知られている。


    ここで议论されたのは、皇帝と诸侯王との关系である。诸侯王の领土は、战国时代の诸王国の领土を分割したものになっている。しかし、春秋时代の都市国家を继承する广さではない。はるかに广い领域が问题になっている。

    この皇帝と诸侯王との关系を、时代的に遡り、周代の制度を述べたのが『礼记』王制である。王制は、周代の天下を「方一千里」九つ分であることを述べ、そのうち一つを天子、他の八つを八人の「方伯」(覇者)がそれぞれ统治するとした。だから、『史记』三王世家が述べた「封建」は、この周天子と八人の「方伯」との关系を表现している。厳密にいえば、八人の「方伯」の领土を分割した领土を问题にしているが、都市国家と周王との关系を念头において、「封建」を论じているのではない。

    ところが、战国时代中期にできた『左传』の僖公二十八年では、「封建」の语を都市国家の封建の意味で使っている。しかも、その封建の范围は、いわゆる中原、『礼记』王制がのべる「方一千里」の广さでしかない。その中原の「方一千里」に多くの国を「封建」し、「藩屏」にしたと书いてある。「藩屏」とは、その外の地域に对抗して军事的な都市同盟の壁を作ることを意味している。この『左侍』僖公二十八年の「封建」は、この用语の最古の事例になっている。それまで使用されていたのは、西周金文に见える「侯たれ」(诸侯とする)である。

    『左传』は、多くの具体的事例をもつて、われわれに周と诸侯の关系を示してくれる。周の势力圏は、春秋时代にあって中原一带の「方一千里」にすぎない。その外には、秦の「方一千里」(西周の故地)、晋の「方一千里」、齐の「方一千里」、楚の「方一千里」、呉?越の「方一千里」が广がっていたことがわかり、燕の「方一千里」も同様に想定可能であることがわかる。中原の一角に殷の末裔たる宋があることを念头におくと、『左传』が具体的に示す春秋の时代は、たしかに、周天子の「方一千里」と覇者の「方一千里」が问题になっている。ただし、ここで问题になる周天子と覇者の关系は、「封建」ではない。それぞれの势力圏は、独立している。それが『左传』の示す事实である。

    つまり、『左传』の段阶では、周王と覇者とのそれぞれの势力圏の间の外交关系が问题になっていたのに、汉代の『礼记』王制になると、周王と覇者の「封建」关系に说明が变更された、ということである。そして、「封建」とういう用语は、『左传』では「中原」の都市国家(藩屏)と周王との关系を示す用语であったのに、『礼记』王制では覇者と周王との关系に说明が变更された、ということである。

    言い换えれば、春秋时代の周王と覇者の外交关系(军事的对抗关系。周と诸侯の「封建」关系の外が问题になる)が、汉代にあって「地方分权」であったかのように说明しなおされた(「外」が「内」に变更された)、ということである④。

    八纮论の要点

    八纮とは、八本の纮(纲)である。天地をつなぐ纲とされている。その语は古く『淮南子』天文训に见える。これが、下记に述べる「五服论」と合体して汉族の居住地を意味するにいたつた。その意味の「八纮」は『史记』から「旧唐书」までの歴代正史に少なからず记されている。

    「五服论」は、甸服からはじまり、侯服·绥服·要服·荒服まで次第に中央から离れた地を问题にし、その服によって、「文化の地」を表现している。その最も边强にあたる荒服が具体的にどこかが、记されている。『史记』によれば、武帝が征服した地域が荒服とされている。また、『旧唐书』によれば、高句丽征伐の成功を祝って、「辽东を平らげた」と表现された。『史记』から『旧唐书』にいたるまで、一贯して郡县支配をしいた武帝征服地の中が问题にされている。

    この「八纮」を『晋书』以后「中华」と表现した。それを「海内」とも表现した。「八纮」の外は「海」とされた。日本などは「海」の中にある。

    『新唐书』になると、「八纮」についての说明で、高句丽征伐の成功を「高丽を平らげた」と表现し始める。これは、明らかに征服王朝である辽をとりこんで歴史を语り始めた证据であり、以后、正史に『辽史』·『金史』·『元史』が入り込むことになる。中国の正史が问题にする「内」が汉族居住地の外までを问题にする时代を迎えた。しかし、「八纮」は次第に影をうすくし、あまり使われなくなっていく。

    五服论の要点

    五服は、専门家には耳になじんだ用语である。『尚书』禹贡の本文と注释を読めば、大要を知ることができる。本来は夏王朝のこととして议论された用语であって、その用语を后代の世界观にも应用した。星野恒の『尚书』の解题には、「孔传ハ注中地名等、往々安国ノ后ニアル者アリ、故ニ前述ノ如ク伪撰ノ说アリ。然ルニ假令、东晋伪撰ニ系ルトスルモ、其时古ヲ去ル未ダ远ヵラズ、旧训古义ノ之ニ頼リテ考フベキモノアリ、且古来传フル所ノ书ナレバ宜シク之ニ由リ解释スベキ若クナレドモ、宋元以来は、注疏ヲ置テ、専ラ蔡传ヲ肆フ、蔡传モ亦往々误谬ヲ免レズ、后人ノ指摘ヲ受クルモノアレドモ、之ヲ要スルニ、疏通鲜明ニシテ、尤モ简易晓リ易シト为ス。……读者先ヅ蔡传ニ据从テ之ヲ寻峄シ、其ノ大义ニ通ジ、然后ニ孔传ニ就キ、孔疏を参酌シ、子細ニ研究スベシ……」とある。これが注释を通覧した识者の见解である⑤。

    世に行われている五服说は、后汉の郑玄が否定した说を『尚书正义』が变更采用したものである。下记に「八纮论」との关わりから简单にまとめておくが、『旧唐书』にいたるまで、『尚书正义』の说が根づいたとは言えない状况にある⑥。

    その上でということだが、论点整理の必要から、「八纮」论との关わりから论じておくことにしよう。上记のように、「八纮」の荒服は、具体的记事によって、おおよそを把握することができる。『礼记』王制が周の制度としてのべた「方一千里」九つの天下より、やや广めの领域を问题にする。『史记』から『旧唐书』まで、この「八纮」を「方万里」(略称「万里」)と表现している。误解する向きも见受けられるが、この「方万里」は「万里四方」ではなく、「方一千里」十个分である。

    このことに连动する话题は、『孟子』万章章句下にあり、「方一千里」の中に「方百里」·「方七十里」·「方五十里」の国がいくつあるかが问题になっている。その议论を见るかぎり、こうした国々は「方百里」の国の禄高と、「方七十里」(严密にいうと七十五里で计算した方がよい)の国の禄高と、「方五十里」の国の禄高が四:三:二になっている。禄高は面积比(一六:九:四)になるはずだから、计算上は明らかにおかしい。この场合も、面积比は、一辺の比になっている⑦。

    だから、ということになるが、「五百里」という表现が面积について话题になる场合は、「方一千里」の半分である。

    この「五百里」という面积をもって说明される「五服」は、そもそもどう说明されたか。それが、战国时代中期の『孟子』にいう天下「方一千里」九个分にあって、どう说明されたか。これらは、歴代の学者の论じるところとはならなかった。

    これも歴代の学者が适切に论じてきたとは言えない(青铜器文化の实际がわかっていなかったせいでもある。また上述したように、『孟子』等の面积说に关心が向かなかったせいでもある)が、『论语』泰伯には、周文王の时代の话题として、「天下」が语られ、殷が1/3、周が2/3を掌握していたことを述べる。上记の『孟子』の议论から推しても、この殷の1/3が「方一千里」に相当するだろう。天下は「方一千里」三つ分である。当时の青铜器文化の扩がり⑧(多くみつもつても「方一千里」5个程度)も、この想定を里付ける。具体的に言えば、周の故地の「方一千里」と殷の「方一千里」と山东の齐(文王と问盟关系を筑いた太公望の国)の「方一千里」である。

    「方一千里」三つ分の中に、「方五百里」は六つ分作れる。だから面积と数値の关系さえ把握できれば、实は容易に发想しうることだが、「方五百里」は六つ分のうち五つを问题にすると、「五服」の地域が语れる。具体的に论じるは避けておくが、周の「方一千里」、殷の「方一千里」(周が灭ぼして势力圏に加えた)、斉の「方一千里」(周に身方した)の中に「方五百里」を作ることもできる。それぞれの半分に「方五百里」を作り、それらの外に「方五百里」を继ぎ足していくこともできる。他の可能性も议论できる⑨。

    こうした议论から始まったのが「五服」で、上述したように「甸服」·「侯服」·「绥服」·「要服」·「荒服」という名称がついている。それぞれ「服」をもって礼仪の违いを论じたようだ。

    战国中期には、この「五服」を九つの「方一千里」に当てはめようという议论がうまれた。汉字圏が明らかに扩大して、天下が九つの「方一千里」からなることを说明し始めたからである。

    そもそも、「方一千里」の中に、「方百里」十个分を议论する场合、农耕地など利用可能な土地(食い扶持として换算できる)と、山地などほっておくべき土地(食い扶持としては换算しないでおく)をわけていたらしい。古代に整备された道路ぞいの土地が念头にあるようだ。実际には、面积で食い扶持を表现しなければならないのに、「一辺」の数値だけでそれを表现するにいたったのは、こうした道路沿いの土地、という考えが影响しているようだ。だから、「方一千里」三つ分の时代にできた言叶を、「方一千里」九つ分について规定しなおすにあたっても、「方一千里」九つの天下の中央から、天下の外に出ていく「道路」を想定する。对角线ぞいにある地域に行くには、必ず「方一千里」二つ分を经由する。道路にそって「方五百里」四つ分を经由する。こうして、汉代の『史记』になると、もっとも远い土地として、「荒服」を设定しなおした。

    この「八荒」が『淮南子』天文训にいう「八纮」内の「八殥」であるとされた。それが『旧唐书』まで继承された。

    一方、汉代になると、「方一千里」の中に大小二百十の国があると说明されるようになった⑩。これは、明らかに碁盘の目のように区画して「~里四方」を议论しはじめた结果である。にも关わらず、「方万里」だけは、「方一千里」十个分として计算され続けた。

    世に知られた五服说(「五千里四方」を论じる。「方一千里」25个分)は、宋代以后主流の坐をしめるようになる。すでに述べたように、汉族の居住地を意味していた天下が、さらに外に广がり、いわゆる征服王朝をも巻き込んで议论されるようになったからである。

    ちなみに、『史记』では、「荒服」を含めて五服は「冠带の国」とされている。『史记』では、この「冠带の国」の外に匈奴の地がある。朝鮮(卫氏)·南越の故地は「荒服」とされている。『史记』では、「冠带の国」は「方万里」を意味する。

    しかし、「冠带の国」を、战国末の『吕氏春秋』まで遡ると、「方一千里」2、3个分にすぎないことがわかる。これは秦が陕西の本拠にし、韩を「东藩」と规定するなどして、设定したものである。この广さは、『论语』の述べた「方千里」三つ分の「天下」と大问小异である。「五服论」とは别に、『论语』の「天下」と大问小异の面积を话题にしている。

    龟趺碑と八纮

    本论冒头に述べたように、私は、これまでいくつかの论文において龟趺を论じてきた。

    その问题をあらためて整理すると、八纮观の定着と密接に结びついていることがわかる。

    龟趺碑は、后汉时代に始地域まる。当时は「游侠の儒化」が议论される(11)。「游侠」は、战国时代の六国の传统をひく地域の舆论を形成する者について、中央からはられたレッテルである。彼等「游侠」は、それぞれの舆论形成の中で、中央とは异なる儒教论を论じていたようである。史料としては、『韩非子』显学に八家の儒と三家の墨を论じているのを、参照することができる。これらは、「显学」であって、战国时代の各领域国家ごとに论じる「显学」たる儒·墨の违いを问题にしたようである。そうした「游侠」が后汉时代には、一家の儒教を议论するようになった。

    その时代、儒教は谶纬说をもって论じられた。纬书が隆盛をきわめた。その纬书が述べる孔子像は异様である。大きな甲罗を背负い、口は海のように大きい。これは玄武を意识した表现である。一方、汉王朝の始祖たる刘邦も、同様の异様さをもって语られている。玄武の表现も混じるが、刘邦像の基本は朱雀を意识したものになっている。ここで问题にされたのが「素王」说である。「素王」たる孔子が「皇帝」たる刘邦を补佐する理念的形が作られている(12)。

    大地をまわる太阳の位置が问题である。南中するとき、太阳は最も高く、西に沈んだ后に北にいたつた太阳の位置は最も低い。刘邦は最も高く、孔子は最も低い。それが「皇帝」と「素王」の违いを理念的に示している。

    にも拘わらず、「素王」には、「素臣」がいたことが议论されている。后汉豪族たちは、みずからが孔子の理念的「素臣」であることを自任することで、「儒化」をはたしたのである。つまり、现实には、「皇帝」たる刘氏の臣であるわけだが、「それとは别の孔子を顶点とする」翼赞体制を标榜することによって、それまで根强く继承されてきた地域地域の舆论を吸収したのである。つまり、天下の议论を受け入れることが、必ずしも皇帝刘氏の臣たることを意味するものではない、という理屈である。

    この地方地方の舆论の问题は、「八纮」を中国とする时代にあって、ずっと表面化しやすい议论であったようだ。勿论のこと比较の问题ではあるが、宋代以后、征服王朝をまきこんで天下を语るようになると、それまでの「八纮」は、天下の一部となる。こうなったとき、「八纮」すなわち「中国」は、汉族にとって、比较的一体感を论じる场となった。この点は、个々に论じなければならない多くの问题を内包する。

    さて、龟趺碑は、后汉时代にあって孔子に假托されていた玄武が、大地を支える存在となることで出现する。そのとき、「八纮」观がすでにできあがっている。だから、龟趺碑が支える大地とは、すなわち「八纮」であった。

    「八纮」の外は「海」である。一方、龟趺碑の龟の先驱たちは、大地をとりまく「海」の汀に表现されている。この汀の龟が孔子に假托された玄武となり、さらには大地を支える力士になりかわって大地を支えることになった。汀の龟が大地を支える力士になりかわる过程については、多くの图像を利用した曽布川寛の研究に详しい(13)。私は、これに孔子に假托された玄武という视点を重ねてみた。

    すでに述べたことであるが、「八纮」とされる地域は、汉族が郡县制をもって统治する地域を漠然と意味している。したがって、その外との外交关系を考えるということは、「八纮」と「八纮」の外との外交关系を考えるということである。

    「八纮宇たり」と「西宇」

    上记において、「龟趺碑は、后汉时代にあって孔子に假托されていた玄武が、大地を支える存在となることで出现する」、「龟趺碑が支える大地とは、すなわち「八纮」であった」と述べたのだが、このことを直接的に记したのが、『汉书』朱博传である。

    朱博字子元杜陵人也……初何武为大司空、又与丞相方进共奏言、「古选诸侯贤者以为州伯、书曰『咨十有二牧』、所以广聪明、烛幽隐也、今部刺史居牧伯之位、秉一州之统、选第大吏、所荐位高至九卿、所恶立退、任重职大、春秋之义、用贵治贱、不以卑临尊、刺史位下大夫、而临二千石、轻重不相准、失位次之序、臣请罢刺史、更置州牧、以应古制」、奏可、及博奏夏御史大夫官、又奏言、「汉家至徳溥大、宇内万里、立置郡县、部刺史奉使典州、督察郡国吏民安宁、故事居部九歳举为守相、其有异材功效著者輙登擢、秩卑而赏厚、咸劝功乐进、前丞相方进奏罢刺史、更置州牧、秩真二千石、位次九卿、九卿缺、以高第补、其中材则苟自守而已、恐功效陵夷、奸宄不禁、臣请罢州牧、置刺史如故」奏可。

    とある。ここでは「八纮」を「宇内」と表现し、それは「郡县を置く」ところであることを述べている。

    この认识は、基本的に『旧唐书』まで继承される。韩瑗传に、次のようにある。

    疏奏、帝谓瑗曰、「遂良之情、朕亦知之矣、然其悖戾犯上、以此责之、朕岂有过、卿言何若是之深也」、瑗对曰、「遂良可谓社稷忠臣、臣恐以谀佞之軰、苍蝇点白、损陷忠贞、昔微子去之而殷国以亡、张华不死而纲纪不乱、国之欲谢、善人其衰、今陛下(太宗)富有四海、八纮清泰、忽驱逐旧臣、而不垂省察乎、伏愿违彼覆车、以收徃过、垂劝诫于事君、则羣生幸甚」、帝竟不纳。

    ここには、「八纮」が「四海」と并列されている。この文章の少し前に「时高宗欲废王皇后、瑗涕泣谏曰、皇后是陛下在藩府时先帝所娶、今无愆过、欲行废黜、四海之士、谁不惕然、且国家屡有废立、非长乆之术、愿陛下为社稷大计、无以臣愚不垂采、察帝不纳」とあるのが端的に示すように、「四海」とは所谓天下のことであり、この场合、「八纮」に等しい。同じ『旧唐书』褚遂良传に、「(秦)文公遂以为寳鸡、后汉光武得雄、遂起南阳而有四海」ともある。「四海」とは四つの海に围まれたところをいい、「海内」とも称する。「八纮」の外は「海」である。

    现实には、「海」とされるところは陆地である。その陆地にも、また海を越えても、外交关系は树立された。

    兴味深いのは、『大唐三蔵圣教序』(14)に次のようにあることである。

    周游西宇、十有七年、穷歴道邦、询求正教、双林八水、味道飱风、鹿苑鹫峯、瞻竒仰异、承至言于先圣、受眞教于上贤、探赜妙门、精穷奥典、一乘五律之道、驰骤于心田、八藏三箧之文、波涛于口海、爰自所歴之国、总将三蔵要文、凡六百五十七部、译布中夏、宣扬胜业、引慈云于西极、洒法雨于东垂……

    これは、インドに求法におもむいたことを「周游西宇」と述べているのであり、かつ、经典を翻译して「中夏」に布くことを述べている。别に确认できる「八纮」たる「中华」(中夏)と别の世界として「西宇」を述べている。

    つまり、单に「海」と述べているかに见える世界の中に「西宇」を设定する认识が示されているということである。「引慈云于西极、洒法雨于东垂」とも述べているから、「海」の向こう侧に「西宇」が设定されている。

    私が注目するのは、この认识が、日本にもたらされると、『日本书纪』の「八纮为宇」という表现ができあがるのではないかと考えられることである。日本は、中国の理をまなんでみずからを「中国」と表现している。またそれを「八纮」とも述べた。これだけなら、「中国の理」を日本に移し替えた、と说明して事足りる。しかし、それだけでなく、『大唐三蔵圣教序』に见える「西宇」を设定する世界观が、日本に影响を与えていないか、ということである。

    私は、亀趺碑を研究する中で、日本の平安末に、奈良唐招提寺の金龟舎利塔(15)が存在することを知った。同种の舎利塔は、和歌山龙光院金龟舎利塔(1460年銘)、奈良长谷寺金龟舎利塔(1842年铭)(16)に继承されている。私の个人的全国调査としても、茨城县坂东市(旧猿岛郡猿岛町)万藏院の石造龟趺塔(17)を発见することができた。万藏院は长谷寺を総本山とする真言宗豊山派の古刹である。

    唐招提寺の金龟舎利塔に先行するものとしては、醍醐寺本十天形像(18)の「水天像」を想起することができる。金龟舎利塔は、いずれも舎利塔にかりて、一つの世界を表现する。上记の『大唐三藏圣教序』に见える「西宇」の世界观は、この舎利塔の示す世界がすなわち「八纮」であることを示している。

    この种の龟趺塔は、高丽にも存在する。高丽高达寺逸名高僧浮屠(舎利塔)と高丽高达寺天宗大师浮屠(舎利塔)である。二つとも同じ廃寺のもので、韩国の骊州に所在する。

    私的检讨によって、龟趺碑は、いわゆる儒葬の问题として整理することができることが明らかとなった。その际、佛教がこの问题にからんでくることが指摘でき、龟趺塔という形式が存在することもわかった。本论における再检讨で、それが「八纮」观と密接にからむことが、あらためて明らかとなった。それは、「八纮」を一つの「宇」とみる观念である。

    韩升の「井眞成墓志」に关する新研究からわかること

    最近、复旦大学教授の韩升は、「井眞成墓志」に关する划期的研究を发表した。

    その研究(19)によると、井眞成は留学生とするのが一般的であるが、井真成墓志出土以来の议论をたどってみると、その说の根拠に疑问符がつき、また唐の制度をあらためて検讨しなおしてみると、その说としての根拠がないことがわかった。唐代の制度や日本の古代史一般に照らし合わせると、井真成は天平5年の多治比広成を大使とする第10次遣唐使节の上席准判官であったと结论される。

    坚实な考证を积み重ねた结论はもとより、私が兴味をいだくのは、その考证过程(20)である。

    「前掲した『续日本纪』に、第10次遣唐使节は「判官四人·録事四人」が置かれたが、第10次遣唐使节の场合には、判官と録事の中间に「准判官」が置かれていた。『续日本纪』天平8年(736)11月戊寅の条に、第10次遣唐使节の随员として、

    准判官従七位下大伴宿祢首名。

    という准判官名がある。これによって、第1O次遣唐使节には、590人という极めて大型の使节団であり、下部组织の管理を考えた结果、特别に准判官が设置されていたことは疑いない。

    ……

    従6位下は通常においては遣唐使判官にはなれない。第10次遣唐使节は総势590人という极めて大型の使节団であることを鉴みて、従6位上以下、7位官で构成する准判官を临时に设けたと想定することは可能であろう。井真成は遣唐使判官としては官位不足であるから、准判官のl员に选抜されていたのであり、准判官の中で彼は従6位下であるから、准判官の中では上席の准判官であった。遣唐使节において无役の者が长安まで上京するはずがない。

    大伴宿祢首名は准判官ではあるが、彼の官位は井真成の官位と大きく异なる。准判官には3等官である判官に近似する准判官と、4等官である録事に近似する准判官があった。遣唐使节内においては同じ准判官であるが、唐朝に提出した使节団の构成员名簿においては、井眞成は判官に准じる扱いとされたようである。それゆえに死亡に际して皇帝に奏闻された。」

    ややもどって、以下のようにある。

    「井眞成は唐风にいえば、従5品下の官品を生前に有していた。これは4阶の借位の结果であり、本当の官位は从6位下であったことになる。从6位下であれば、井眞成は遣唐使判官であってもよいことになるが、高阶远成の例から明らかなように、通例として判官は正6位上の官位にある者が就任するから、从6位下であれば位不足というべきである。

    『续日本纪』天平4年(732)の条に、

    八月丁亥、以从四位上多治比眞人广成为遣唐大使、从五位下中臣朝臣名代为副使。判官四人、録事四人。

    とあり、第10次遣唐使の判官は4人と明记されている。4人の姓名は『遣唐使研究と史料』(东海大学出版会1987)の224页に列挙されており、以下の人たちである。

    平群広成      外从5位上    潮海国经由で归国。

    田口养年富    正6位上      归国せず(归路物故。天平8年赠从5位下)。

    纪马主        正6位上      归国せず(归路物故。天平8年赠从5位下)。

    秦朝度

    从つて、井真成を第10次遣唐使判官とすることはできない。また上记に示した判官が正6位上であるから、从6位下の井真成を判官とするには少々の无理がある。

    では、井眞成は4等官(主典)の遣唐使録事ではないかと想定されるが、録事は7位官から选抜するのを通例とする。井眞成の死亡は唐朝に报告され、赠尚衣奉御の官を授与されたことを思えば遣唐使録事でもない。唐朝の规定では、唐领域内における外国使节の3等官以上の死亡は、皇帝に奏闻することになっているからである。『唐六典』巻18鸿胪寺·典客署の条には、外国使节に关して、

    若身亡、使主·副及第三等已上官奏闻。其葬事所须、所司量给。欲还蕃者、则给轝递至境。首领第四等已下、不奏闻、但差车·牛、送至墓所。

    とある。外国使节の3等官以上が唐朝の领域で死亡した场合、皇帝に奏闻し、葬仪费用は唐朝が负担する规定であった。井真成の死は皇帝に奏闻され、从5品下の官品にあったから、1阶进めて赠尚衣奉御を授与されたのである。また葬仪费用は唐朝が负担したのである。やはり井眞成は3等官であったと想定しなければならない。しかし、第10次遣唐使判官は4名で、その姓名も判明しているから、井眞成は遣唐使判官ではない。」

    以上、长々と引用してみたのは、この考证の前提として、唐の官品と日本の官品は、数値の上で相当する、という暗黙の了解が働いていることを确认したかったからである。

    すでに战前の研究が明らかにしていることだが、朝鮮李朝の龟趺に关する暗黙の了解は、二品以上に许すというものであった(21)。これは、いわゆる册封体制なるものが、皇帝の品阶と册封国の品阶の数値上の差として表现される、との意识が前提にあったことを示す。

    上记の唐の规定は新罗をもまきこむものになっているのが注目点である。唐の规定は、明と朝鲜との关系に见える意识とは违って、皇帝の品阶と册封国の品阶の数値が「一致している」ことを前提にしている。

    すでに本论においても、再确认しておいたように、「八纮」观の变迁を确认することで、①战国时代(原中国の时代)、②『史记』から『旧唐书』にいたる时代(八纮观の时代)、③『新唐书』以后の时代(「八纮」观が衰退した后の时代)の三つの时代を论じることができる。この三つの时代ということから述べれば、唐と新罗?日本との外交の上で问题になる品阶の比较は、②の时代のものであり、明と朝鲜との间で问题になる品阶の比较は、③の时代のものだということである。

    これも先に指摘しておいたように、高丽では石造龟趺塔が作られたことがわかっている。よく知られたように、高丽は高丽王を顶点とする独自の品阶秩序を形成しており、私の检讨したところでも、唐の规定にあった「五品以上に许す」をそのまま高丽の数値上の规定として援用していたようである。つまり、②の时代において行われていた品阶の比较がなされているということである。これが、朝鲜李朝になったときに③の时代の品阶比较に变わった。

    日本の龟趺碑のあり様は、この②の时代の品阶比较を引き继ぐものであった。ただし、日本国内において、品阶が天皇を顶点とするものにならざるを得ない点が、实际の権力者であった徳川幕府の将军の位置づけと阴に阳に关わることになって、あちこちで一见奇妙な对应をひきおこしている。

    こうした东アジアの外交关系に密接に关わる问题を、韩升の「井眞成墓志」研究は、あらためて提起したのである。すでに述べたように、私的检讨によって、龟趺碑は、いわゆる儒葬の问题として整理することができることが明らかとなった。その际、佛教がこの问题にからんでくることが指摘でき、龟趺塔という形式が存在することもわかった。本论における再检讨で、それが「八纮」观と密接にからむことが、あらためて明らかとなった。それは、「八纮」を一つの「宇」とみる观念であった。いま、韩升の研究を引用しつつ、高丽や日本における龟趺塔の制作が、この「八纮」观の时代の观念を继承するものであったことを、あらためて问题提起してみた次第である。

    おわりに

    本论は、私が别に论じてきた「五服论」·「八纮论」·「地方分权论」において、必ずしも言及しきれていなかった问题として、これらと龟趺碑研究ととの关系について、具体的に检讨してみた。

    龟趺碑は、八纮论の时代に世に出现し、八纮论が衰退した后も作られ续けた。中国皇帝を顶点とする体制が征服王朝をまきこんだものになった结果として、八纮论は衰退していった。八纮论の时代の龟趺は、すでに皇帝の下、品阶规定を作っていた。この品阶は、佛教と必ずしも关系あるものではない。むしろ、后に儒葬として检讨される墓葬规定と关系づけられるべきものである。

    ところが、战国时代以来の宇宙观を继承しつつ出现した龟趺は、后汉の「游侠の儒化」の时代を经て、佛教と结びついた。「八纮」という「宇」を支える形を示すものとして龟趺塔が作られた。それが、八纮论が衰退した后も、高丽で作られ续けた。その龟趺塔のあり样は、日本江戸时代の龟趺碑の议论にも影响を与えた。

    高丽や日本における龟趺塔め制作が、この「八纮」观の时代の观念を继承するものであり、日本江戸时代の龟趺碑も同じ观念を继承していたことを、あらためて问题提起してみた次第である。

    *作者简介:平势隆郎,日本国东京大学东洋文化研究所教授。

    ①  平势隆郎「日本近世の龟趺碑——中国および朝鲜半岛の歴代龟趺碑との比较を通して——」(『东洋文化研究所纪要』121·122、1993年)、平势隆郎「东亚册封体制与龟趺碑」(高明士主编『东亚文化圈的形成与发展——政治法制篇——』国立台湾大学歴史学系、2003年)、平势隆郎『龟の碑と正统——领域国家の正统主张と复数の东アジア册封体制观——』(白帝社、2004年)、平势隆郎「东アジアにおける律令施行域と册封关系——龟趺碑などを题材として——」(『九州岛岛大学东洋史论集』2005年)、平势隆郎「关野贞の龟趺碑研究」(藤井惠介他编『关野贞アジア踏查』东京大学総合研究博物馆·东京大学出版会、2005年)、平势隆郎「南方の守神朱雀の诞生」(秋筱宫文仁·西野嘉章编『鸟学大全·东京大学创立百三十周年纪年特别展示「鸟のビオソフイア——山科コレクションヘの诱い」展』东京大学出版会、2008年)。

    ②  前揭<1>「南方の守神朱雀の诞生」。これに关连する「游侠の儒化」を论じたのは平势隆郎「何谓游侠的“儒化”——豪族石碑出现的背景」(赵力光主编『纪年西安碑林九百二十周年华诞国际学术研讨会论文集』文物出版社、2008年。日本语は『史料批判研究』8、2007年)。

    ③  平势隆郎「「五服」论の生成と展开」(『古中世史研究』21、韩国古中世史学会、2009)、平势隆郎「『论语』の天下観、『孟子』の天下観、『礼记』の天下観——“天下の正统”とその暦を理解するために」(『第2回「歴史的记録と现代天文学」研究会集録』编集发行相马充·谷川清隆、自然科学研究机构国立天文台、2009年)、尾形勇·平势隆郎『中华文明の诞生』(同名书1998年版に增补を加えて文库化。增补分に当该问题を论述、2009年)。

    ④『左传』が作られたころは孟子の时代である。その孟子の言行録とされる『孟子』は、『礼记』王制の先驱として、天下に「方一千里」なるものが九つあり、一つを天子、他を「方伯」が治めることを述べている(梁恵王章句上)。そして、齐の宣王に对し、夏?殷?周三代はそれぞれ「方一千里」に王道(仁政)をしいて天下を治めたという战国中期当时の歴史认识の上に立って、齐もすでに领有している「方一千里」に王道をしいて、天下の王となるべきことを说いている(公孙纽章句上)。これは、当时の军事的对抗关系を述べたものである。自己の「方一千里」が王道の施行によって、天下第一の天子の治める地になることを述べている。つまり、『孟子』と『礼记』王制は、天下に「方一千里」が九つあるという点で同じことを述べているにも拘わらず、『孟子』は「方一千里」相互の军事的对抗关系を念头において述べ、『礼记』王制は「方一千里」を治める「方伯」を天子が「封建」する「地方分权」を述べているのである。この战国中期成书の『孟子』と汉代成书の『礼记』王制を繋ぐのが、战国末成书の『国语』郑语である。『国语』郑语の冒头は、『左传』僖公二十八年に述べた「藩屏」の置かれた一帯の中に、郑の国がうつった说话を记している。说话の舞台自体は西周末のことであり、动乱の陕西の地にいては军事的に危ないので、东方のどこにうつるかが话题にされている。この『国语』に示された「封建」では、『左传』が话题にした地域が特別であるということを述べた上で、その外まで扩大して「封建」を论じている。『左传』が话题にしたのは、かつての殷の「方一千里」の中だが、『国语』は、その中の小诸侯に加え、周围の大国たる霸者をも、诸侯として论じている。周围の大国の下の小诸侯は话题にしない。议论されるのは、昔の殷の「方一千里」に置かれた小诸侯と、周围の「方一千里」に君临する霸者(大国)である。この『国语』に示された「封建」认识が、『孟子』の认识と合体して汉代に继承された。

    ⑤  星野恒の解题(明治44年7月记)は、冨山房本『毛诗·尚书』。以下、「五服论」については、平势隆郎「「五服」论の生成と展开」(〈韩国〉『中国古中世史研究』21、2009年)参照。

    ⑥  顾颉刚『史林杂识』(中华书局、1963年)の「1畿服」は、『尚书正义』の说を后汉に遡らせて「五服」を论じた。后汉の郑玄の说も『尚书正义』の说も、天下を「五千里四方」(「方一千里」25个分)として论じる点は同じである。しかし、中身は违っている。顾颉刚はその违いを舍象して(もしくは误读して)后学の误解を生んだ。后汉の郑玄が「五千里四方」说を否定したのは、この说によって天下を「方一千里」25个分とすると、それまでの「方一千里」9个分を「天子」が1个、8人の「方伯」がそれぞれ1个という说を基础に(『礼记』王制に书いてある)、「天子」がl个、8人の「方伯」がそれぞれ「3个」と说明せざるを得ないためである。『尚书正义』の说は、これとは异なる五千里四方说(四方を500里ずつ扩大して设定して五服を并べる说で、世に知られるもの)を提示している。この说は、本论に述べるように、『新唐书』以后に世に定着していく说である。

    ⑦  下记に述べる「冠带の国」も战国时代の『吕氏春秋』审分览にあって「方三千里」と记される。『战国策』などによって具体的に想定できるこの场合の「冠带の国」の广さは、「方一千里」2、3个分にすぎない。この「方三千里」も「方一千里」3个分の意味で用いられている。こうした面积と数值との关系については、私的には平势隆郎「中国古代正统的系谱」(『第一回中国史学国际会议研究报告集·中国の歴史世界——统合のシステムと多元的发展——』东京都立大学出版会、2002年)の注35以来、折りに触れて事实の提示を行ってきている。

    ⑧  李伯嫌『中国青铜文化结构体系研究』(科学出版社、1998年)。

    ⑨  平势隆郎「『周礼』とその成书国」(『东洋文化』81、2001年)、平势隆郎『都市国家から中华ヘ——殷周春秋战国』(讲谈社、2005年)208页以下、平势隆郎「战国时代的天下与其下的中国、夏等特别领域」(甘懐眞编『东亚歴史上的天下与中国概念』台湾大学出版中心、2007年)にも、书物内容に応じた「五服」の有り様を论じている。

    ⑩  この碁盘の目の议论が、代々面积论を误らせてきた元凶である。论理的には正しい、というより面积を论じるには、そうあらねばならないのだが、歴史的用语としての「万里」「五百里」「百里」などは、实はまったく异なる文脉から论じられていたのである。

    (11)  学问的には、宫崎市贞が议论しはじめたもので、前揭〈2〉平势隆郎「何谓游侠的“儒化”——豪族石碑出现的背景」に宫崎市贞以来の议论をまとめ、私见を述べておいた。

    (12)  前掲〈1〉平势隆郎「南方の守神朱雀の诞生」、前掲〈2〉平势隆郎「何谓游侠的“儒化”——豪族石碑出现的背景」。


    (13)  曽布川寛『昆仑山ヘの升仙——古代中国人が描いた死后の世界』(中央公论社、1981年)。

    (14)  钦定四库全书文苑英华巻七百三十五。

    (15)  奈良国立博物馆编『佛舎利の庄严』(同朋社、1983年)。

    (16)  同上。

    (17)  前掲〈1〉「日本近世の龟趺碑」

    (18)  小野玄妙编『大正大藏经·图像』(大正新修大藏经刊行会、1988-1989年。普及版は高楠顺次郎编)。9世纪末。

    (19)  韩升「井眞成墓志の再检讨」(2009年)。

    (20)  この考证にあたっては、中村裕一の助言があったことが前掲《19》论文に注记されている。日中共同の场で为されたということである。

    (21)  前掲〈1〉平势隆郎「日本近世の龟趺碑——中国および朝鲜半岛の歴代龟趺碑との比较を通して——」等。战前の研究として、葛城末治「朝鲜金石考」(大阪屋书店、ソウル、1935年)に、「二品以上に建てる」ことが推测されている。管见の限り、「规定」は见えない。明の规定を援用し、明の「三品」以上を朝鲜の「二品」以上に读みかえたものらしい。

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