仏教と朝贡の关系—唐代を中心に—

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    はじめに

    前近代の中国を中心とした世界では、中国と周辺诸国との间の关系は、基本的に中华思想に基づいて构筑されていたのであり、周辺诸国の多くは、朝贡がもたらす利益を求めて中华思想の理念に则り中国に対して朝贡を行った。しかし、晋代以降の朝贡の中には、中华思想に则るだけでなく、仏教を全面的に强调する朝贡を见出すことができる。

    晋南北朝时代、混乱した世相を反映して仏教が极めて隆盛したことにより、各王朝は人心掌握のために仏教の持つ影响力を取り込んでいこうとし①、周辺诸国は、そのような中国国内の仏教事情に着目して仏教色を强调した朝贡を行っていた。これらの仏教色を强调する对外交渉の存在に、最も早く注目したのが韩升氏であった②。报告者は、氏の研究を参照しつつ、仏教色を强调する朝贡を仏教的朝贡と名付け、これまで南北朝时代から隋代にかけての事例を中心に调查してきた。その结果、仏教を强调することで皇帝の歓心を买うことを基本的な目的とする仏教的朝贡は、仏教的に皇帝·国土を称赞するもの(例:外交文书において汉訳経典用语を用いて赏赞する)、仏教的文物を献上品とするもの(例:仏像等を献上する)、そして仏教的文物を下赐品に要求するもの(例:皇帝注釈の経疏等を下赐品として要求する)とに分类できることが判明している③。

    一方、本报告の対象とする唐代の対外关系については、唐は自らを中心とする秩序を宗教的に补完するものとして道教を利用しようとしたのであり、周辺诸国は、道教を积极的に受け入れることで唐との关系を确立しようとしていたことが既に先行研究によって明らかにされている④。隋代以前、各帝室が仏教を尊重し、そのために周辺诸国が仏教的朝贡を行っていたことを考えれば、唐帝室が公的に最も重视していた道教が、対外交渉の场で强调されるのも当然であろう。とはいえ、唐の皇帝の多くは、道教を重视するとともに造寺·訳経といった崇仏行为を热心に支持?展开しており、それら皇帝の崇仏行为を背景として、中国仏教は唐代に最盛期を迎える。隋代以前と同様に、唐代においても仏教的朝贡が行われる素地は十分に整っていたのであり、既に韩升氏が指摘しているように⑤、実际に、唐代にも仏教的朝贡が盛んに行われていた。

    以下に、『旧唐书』、『新唐书』、『资治通鉴』、『册府元亀』、『唐会要』、『通典』、『全唐文』、『続高僧伝』、『宋高僧伝』、『仏祖统记』といった中国で撰述された史书から、确実に仏教的朝贡であると确认できるものを列挙しておく。

    高祖

    武徳八年(六二五)「八年、高丽遣人来学道仏法。诏许之」(『册府元亀』巻九九九、外臣部四四、请求、一一五五七页)

    太宗

    贞観一二年(六三八)「釈慈蔵、姓金氏、新罗国人。(中略)以贞観十二年。将领门人僧実等十有余人、东辞至京」(「唐新罗国大僧统釈慈蔵伝」『続高僧伝』、『大正』五〇巻、六三九页~a八~b一四)⑥。

    贞観一五年(六四一)「是歳、天竺国王尸罗逸多遣使朝贡、帝复遣李义报使、其王复遺使献大珠及郁金香、菩提树」(『册府元亀』巻九七〇、外臣部一五、朝贡三、一一二三〇页』。

    贞観一六年(六四二)「乌苌自古未通中国、其王达摩因陀诃斯遣使奉表曰『大福徳至尊一切王中上、乗天宝车、破诸黒暗、譬如帝釈能伏阿修罗王。奴宿种善根、得生釈种拝至尊』。因献龙脳香」(『册府元亀』巻九七〇、外臣部一五、朝贡三、一一二三〇页』。

    贞観一九年(六四五)「戒日及僧、各遣中使、赍诸経宝远献东夏。是则天竺信命、自奘而通。宣述皇猷之所致也」(「京大慈恩寺釈玄奘伝」『続高僧伝』『大正』五〇巻、四五四页c二二~二四)。

    贞観二○年(六四六)「闰三月、悉立国、章求抜国、俱兰国、并遣使贡献。(中略)倶兰、亦名倶罗、其王表曰『如雪如珠、如云如月、洁白高远。是文夫枝清涼、一切如须弥山、又如大海、威力自在。如那罗延、如日光明、大王中王大汉国胜天子、名流四海。倶罗那国王忽提婆谨修礼拝」(『册府元亀』巻九七〇、外臣部一五、朝贡三、一一二三〇页)。

    贞観二一年(六四七)「摩伽国献菩提树、一名波罗、叶似白杨」(『唐会要』、巻一〇○、雑録、二一三四页)。

    年不明「唐太宗、高丽三国沙门僧愿、入中国学仏法」(『仏祖统记』、『大正』四九巻、四五七页a六)

    高宗

    永徽四年(六五三)「日本国遣沙门道照、入中国従奘法师伝法」(『仏祖统记』、『大正』四九巻、三六七页a二~三)。

    顕庆三年(六五八)「日本国遣沙门智通、入中国求大乗法」(同右、三六七页b六)。

    年不明「此之梵夹乃高宗朝师子国所进者、写毕进上」(「唐醴泉寺般若伝」『宋高僧伝』巻三、四九~五〇页)。

    玄宗

    开元元年(七一三)「十二月、靺鞨王子来朝、奏曰『臣请就市交易、入寺礼拝』。许之」(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、朝贡四、一一二三七页)。

    开元四年(七一六)「奚使乞于寺観礼拝、及向両市贸易。许之」(『册府元亀』巻九九九、外臣部四四、请求、一一五五七页)。

    开元四年「日本国遣沙门元昉、入中国求法」(『仏祖统记』、『大正』四九巻、三七三页c一~二)。

    开元七年(七一九)「不数月、又遣大徳僧来朝贡」(『旧唐书』巻一九八、列伝一四八、払菻国条、五三一五页)。

    开元七年「六月、大食国、吐火罗国、康国、南天竺国遣使朝贡。其吐火罗国支汗那王帝賖上表献解天文人大慕阇、『其人智慧幽深、问无不知。伏乞天恩、唤取慕阇亲问。臣等事意及其教法、知其人有如此之芸能。望请令其供奉、并置一法堂、依本教供养』。」(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、朝贡四、一一二三九页)。

    开元八年(七二〇)「九月、南天竺王尸利那罗僧伽宝多枝摩为国造寺、上表乞寺额、勅以帰化为名赐之」(『旧唐书』巻一九八、列伝一四八、天竺国条、五三○九页』。

    开元一四年(七二六)「日本国沙门栄叡普照至扬州、奉国主命以僧伽梨十领施中国高行律师」(『仏祖统记』、『大正』四九巻、三七四页a一一~一二)。

    开元一六年(七二八)「遣使来献方物、又上表请令人就中国学问経教、上许之」(『旧唐书』巻一九九上、列伝一四九上、新罗国条、五三三七页)。

    开元一七年(七二九)「七月、吐火罗使僧难陀献须那、伽帝、釈麦等薬」(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、朝贡四、一一二四〇页)。

    开元一八年(七三〇)「吐火罗僧难陀来朝贡、献瑞麦香薬等」(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、朝贡四、一一二四〇页)。

    开元一九年(七三一)「十九年十月、中天竺国王伊沙伏摩遣其大徳僧来献方物」『旧唐书』巻一九八、列伝一四八、天竺国条、五三〇九页)。

    开元二〇年(七三二)「八月庚戌、波斯王遣首领潘那密与大徳僧及烈朝贡、授首领为果毅、赐僧紫袈裟一副、及帛五十疋、放还蕃」(『册府元亀』巻九七五、外臣部二〇、褒异二、一一二八六页)。

    开元二一年(七三三)「闰三月辛卯、个失密王木多笔遣大徳僧物理多年来献表、诏引物理多年宴于内殿、赐绢五百疋、数目放还蕃」(『册府元亀』巻九七五、外臣部二〇、褒异二、一一二八六页)。

    天宝元年(七四二)「払菻国王遣大徳僧、(略)并来朝」(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、朝贡四、一一二四二页)。

    天宝四载(七四五)「又小勃律遣僧大徳三蔵伽罗密多来朝」(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、朝贡四、一一二四三页)。

    天宝五载(七四六)「五载正月、师子国王尸罗迷伽遣婆罗门僧潅顶三蔵阿目伽跋折罗来朝、献钿金宝璎珞、及贝叶梵写『大般若経』一部、细白氎四十张」(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、朝贡四、一一二四三页)。

    天宝七载(七四八)「八月(中略)戊午、勃律国王苏失利芝及三蔵大徳僧伽罗密多并来朝、授伽罗密多鸿胪员外卿、放还蕃。赐苏失利芝紫袍金帯、留宿卫、给官宅」(『册府元亀』巻九七五、外臣部二〇、褒异二、一一二四三页)

    天宝九载(七五〇)「属玄宗徳被遐方、罽宾国愿附大唐、遣大首领萨婆达干与三蔵舍利越摩、于天宝九载来朝阙庭、请使巡按」(「唐上都章敬寺悟空伝」『宋高僧伝』巻三、五〇页)。

    肃宗

    干元元年(七五八)「五月壬申朔、诏以吐火罗三蔵山那及弟子达磨、首领安延师等来诣阙、以三蔵为光禄少卿、达磨可折冲都尉、延师可左清道率、并员外置、仍放还蕃」(『册府元亀』巻九七六、外臣部二一、褒异三、一一二九三页)。

    代宗

    大暦六年(七七一)「回纥请于荆、扬、洪、越等州置大云光明寺」(『仏祖统记』、『大正』四九巻、三七八页c二八)。

    徳宗

    建中二年(七八一)「初、吐蕃遣使、求沙门之善讲者、至是遣僧良琇、文素二人行、毎人载一更之」(『唐会要』巻九七、吐蕃、二〇五五页)。

    贞元一一年(七九五)「以兴元元年杖锡谒徳宗、乞钟一口帰天竺声击。勅広州节度使李复修鼓祷毕、令送于南天竺金堆寺。华乃将此钟、于宝军国毘卢遮那塔所安置。后以华严后分梵夹附舶来、为信者般若三蔵于崇福寺翻成四十巻焉。一云梵夹本是南天竺乌荼国王书献脂那天子、书云『手自书写华厳経百千偈中所说善财童子五十五圣者、善知识入不思议解脱境界普贤行愿品、谨奉进上、愿于龙华会中奉観云』。即贞元十一年也」(「唐莲华伝」『宋高僧伝』巻三、四七页)。

    贞元一八年(八〇二)「乃遣其弟悉利移因南诏重訳来朝。又献其国楽凡十曲、与楽工三十五人倶。楽曲皆演釈氏経论之词意」(『旧唐书』巻一九七、列伝一四七、骠国条、五二八六页)。

    贞元二〇年(八〇四)「遣使来朝、留学生橘逸势、学问僧空海。元和元年、日本国使判官高阶真人上言、『前件学生、芸业稍成、愿帰本国、便请与臣问帰』。従之」(『旧唐书』巻一九九上、列伝一四九上、五三四一页)。

    宪宗

    元和五年(八一〇)「十月、新罗王遣其子来献金银仏像及仏経幡等、上言为顺宗祚福、并贡方物」(『册府元亀』巻九七二、外臣部一七、朝贡五、一一二五〇页)。

    元和九年(八一四)「九年正月、渤海使高礼进等三十七人朝贡、献金银仏像各一」(『册府元亀』巻九七二、外臣部一七、朝贡五、一一二五〇页)。

    元和一〇年(八一五)「八月(中略)丙寅、诃陵国遣使献僧祇僮及五色鹦鹉、频伽鸟并异香名宝)(『旧唐书』巻一五、本纪一五、宪宗下、四五四页)。

    元和一三年(八一八)「十三年十一月、献僧祇女二人、及玳瑁[王+葢]、生犀等」(『唐会要』巻一〇〇、诃陵国、二一一七页)。

    穆宗

    长庆四年(八二四)「九月(中略)甲子、吐蕃遣使求五台山図」(『旧唐书』巻一七上、本纪一七上、敬宗、五一二页)。

    文宗

    太和五年(八三一)「五年二月、新罗王子金能儒并僧九人、(中略)、并入朝」(『册府元亀』巻九七二、外臣部一七、朝贡五、一一二五一页)。

    宣宗

    大中四年(八五〇)「日本国遣沙门常晓、入中国求釈迦密教」(『仏祖统记』、『大正』四九巻、三八七页b一一~一二)。

    唐代にも盛んに仏教的朝贡が行われていただけでなく、隋代以前と同様に、三つの形态を全て确认できることが了解されたであろう。

    上に挙げた例の内、最も注目されるのが、日本の遣唐使が复数含まれていることである。僧侣を伴い、中国人僧侣の招聘活动を展开した日本の遣唐使も、その他の仏教的朝贡と同様に、仏教に特化した朝贡であると认识されていたことは疑いない。

    僧侣を朝贡使として派遣するという形态が多く确认できることも、唐代の仏教的朝贡を考える上で重要である。例えば、天宝元年(七四二)に朝贡した払菻国は、

    払菻国王遣大徳僧、新罗王遣使、并来朝。(『册府元亀』巻九七一、外臣部一六、一一二四二页)

    とあるように、僧侣を朝贡使として派遣した。僧侣を使者とするこの払菻国の朝贡もまた、上に挙げるその他の仏教的朝贡と同様に、仏教色を强调していると见做されたであろう。この払菻国の朝贡も含めて、唐に使者として派遣された僧侣达については、彼らがどのような上表文や献上品をもたらしていたのか记録には残されていない。これらの朝贡では、僧侣を使者として派遣していた、という点が最も重视されていたためであろう。よって、これらの僧侣を使者として派遣する朝贡は、仏教的朝贡の新たな形态—僧侣派遣型—と分类することができる。

    さらに、僧侣を対外交渉の使者として起用していたのは、周辺诸国だけではなかった。例えば、高宗は、総章二年(六六九)に、僧侣を使者として新罗に派遣し、磁石を求めている。

    春正月(中略)唐僧法安来、伝天子命、求磁石。(『三国史记』巻六、新罗本纪六、文武王九年、春正月条)

    また、藤善眞澄氏は、开元二九年(七四一)に中天竺が朝贡した折、开元八年(七二○)の南天竺の朝贡使に従って入唐した金刚智が、中天竺使节の帰国に伴う唐侧の返礼使を兼ねて帰国することとなり、金刚智が出国前に死去した际には、その弟子であった不空が使者に起用されて南海に渡航したことを明らかにした⑦。つまり、周辺诸国のみならず、唐侧も、僧侣に対外交渉の使者としての役割を期待していたのである。

    以上によって、①唐代にも仏教的朝贡が行われていたこと、②日本の遣唐使も仏教的朝贡であると见做されていたこと、③僧侣を対外交渉の使者として派遣するという新たな形态の仏教的朝贡が登场していること、④唐侧も诸国へ派遣する使者に僧侣を起用していたこと、が明らかになった。唐代には、道教が対外交渉において强调されていたのと同様に⑧、仏教もまた、対外交渉を円滑に进める上で唐と周辺诸国の双方から重视されていたのである。

    今后は、唐代における仏教的朝贡の全体像を解明し、唐代対外关系史のなかにそれを位置づける作业が必须となろう。本报告はその前提として、最も基本的な情报を提供するものである。

    *作者简介:河上麻由子,日本学术振兴会特别研究员。

    ①  鎌田茂雄『中国仏教史第三巻南北朝の仏教(上)』(东京大学出版会、一九八四年)、佐藤智水「云冈仏教の性格」『北魏仏教史论考』所収、冈山大学文学部、一九九八年、初出一九七七年)等。

    ②  韩升「《隋书·倭国伝》考释」(『中华文史论丛』六一辑、上海古籍出版社、二〇〇〇年)。

    ③  拙稿「仏教与朝贡的关系—以南北朝时代为中心—」(『伝统中国研究集刊』一、二〇〇六年)、「遣隋使と仏教」(『日本歴史』七一七、二〇〇八年)、及び、「中国南朝の対外关系において仏教が果たした役割について—南海诸国が奉つた上表文の検讨を中心に—」(『史学雑志』一一七一一二、二〇〇八年)。

    ④  小幡みちる「唐代の国际秩序と道教—朝鲜诸国への道教公伝を中心として—」(『史滴』)二五、二〇〇三年)、同「日本古代の道教受容に关する一考察—八世纪前半の日唐关系を通じて—」(『早稲田大学大学院文学研究科纪要』五〇一四、二〇〇四年」。

    ⑤  韩升「东亜世界形成史论」(复旦大学出版社、二〇〇九年)二〇三—二〇四页。

    ⑥  金慈蔵が恐らくは新罗朝廷の意図を受けて朝贡使に同行されて入唐したことは、李成市「新罗僧·慈蔵の政治外交上の役割」(『古代东アジアの民族と国家』所収、岩波书店、一九九八年)二二四—八页。

    ⑦  藤善真澄「金刚智·不空渡天行釈疑—中·印交渉を手悬りに—」(『奥田慈応先生喜寿记念  仏教思想论集』所収、平楽寺书店、一九七六年)八三一—八三四页。

    ⑧  小幡みちる「八世纪后半の日唐关系と道教」(『史滴』二九、二〇〇七年)七一—七四页。

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